雪の残る鬼子母神前、第一次都電熱狂期

今月15日は、雪の中で鬼子母神前で、幸せの黄色い都電、黄色いあや電、りなちょこと8810号車を撮影しました。昨年の雪の時は撮影出来なかったので、今回撮影することが出来て良かったです。

黄色い都電に雪が似合っているし。

この日は、8501号車(めんめん)、9002号車(青色のにょん電)なども撮影していました。

今月14日の大雪の時に撮影した、都電沿線のあらかわ遊園で保存されている6000形の6152号車。

都電6000形は、1947(S22)年から1952(S27)年に掛けて290両製造され、狭軌の杉並線(14系統)を除いた全路線で活躍していました。

1972(S47)年11月に現在の荒川線部分以外の路線が全廃となってからは、荒川車庫所属の車両が、1978(S53)年4月1日の全車両ワンマン化まで活躍していました。

この6152号車は、1978(S53)年4月1日以降も応急車として残され、1987(S62)年に黄色に赤帯塗装のままイベント用として復活していました。

1988(S63)年には、車体改修、1950年代の緑色とクリーム色塗装に変更され、ギャラリー号として完全復活し、後に毎月第1・第3日曜日に荒川車庫前→早稲田→三ノ輪橋王子駅前→荒川車庫前のルート、決められた時刻で定期運用されるようになっていました。

1993(H5)年3月には、照明の丸型化、塗装が明るいものに変更され、2000(H12)年12月まで活躍していました。


2000(H12)年12月に運行停止された理由は、同年12月17日に福井県京福電気鉄道(福井鉄道部)越前本線(現、えちぜん鉄道勝山永平寺線)の東古市(現、永平寺口)駅で発生した正面衝突事故(半年後の2001(H13)年6月24日にも保田〜発坂間で発生していた)の影響により、事故車のブレーキ系統が6000形と同様に1系統しかなかったことで、この6152号車も運行停止を余儀なくされていました。

ブレーキの多重化の改修には、約3000万円と莫大な予算が必要となっていた為に、都の財政難により断念され、翌年の2001(H13)年12月に7500形で唯一原型で残されていた7504号車と共に廃車となり、2002(H14)年に2回、今から10年前の2003(H15)年1月25日に荒川車庫で最後の撮影会が行われていたけど、当時の自分は都電から離れていた為に行かなかったのが惜しまれます。

このまま荒川車庫で保存されたとしたら5000万円掛かるということで、荒川車庫構内での保存が断念されていたけど、解体せずに保存して欲しいという声が高まっていたので、保存先がインターネットで募集された結果、荒川区に譲渡され、同年4月からは、あらかわ遊園で静態保存されるようになりました。

この6152号車は、今から20年前の1993(H5)年5月29日(8500形の最終増備車である8505号車(めろ電)を初めて見た時)から1998(H10)年4月5日まで続いた第一次都電熱狂期の時によく乗りに行っていたのであの頃が懐かしいです。

当時は現在のように都電に寄り道することが多かったし。

約5年間続いた第一次都電熱狂期には、幕式時代の7000形25両(豊橋鉄道に譲渡された7017号車と7021号車や事故廃車となった7020号車を含む)と8500形5両(めろ電、めんめん)のほか、一昨年3月に全廃となった7500形もバリバリ活躍していました。

当時の7022号車は、現在のリバイバルカラーではなく、現行の塗装でした。

自分が最後に6152号車に乗りに行ったのは、第一次都電熱狂期終了から2年半後の2000(H12)年10月1日のことで、荒川線の日のヘッドマークが付いていました。

6152号車の運行休止→廃車により、第1・第3日曜日に都電に乗る楽しみが半減していたという衝撃的な出来事だったということは言うまでもなく、自分が一時期に都電から離れていたきっかけでもありました。

6152号車が担っていたレトロ調のイベント車両の座は、2007(H19)年に登場した9000形によって埋められています。

時は流れて第一次都電熱狂期が終了してから11年経った2009(H21)年4月5日に現在の第二次都電熱狂期がスタート(4月26日の8800形のデビューから本格始動)し、高戸橋へも頻繁に通うようになりました。

6152号車と雪の組み合わせで、現役時代に除雪車として活躍していたことを思い出します。

過去のことを振り返ってはいけないけど、今から15年前の1998(H10)年4月5日(ジバン氏の誕生日で奇しくも明石海峡大橋が開通した日)をもって第一次都電熱狂期が終了した理由は、この日に原宿(表参道)でSPEEDによる春の交通安全運動10回記念の交通安全出勤パレードを見逃したことにより生スピを果たせなかったことの悔しさによるものとなっていました。

当時はSPEEDの人気絶頂期であったけど、情報不足で、それを知らずに都電の1日乗車券を使って沿線を散策していました。

これを期に早く生のSPEEDを見てみたいと強く思っていました。

この時には都電から一時的に離れ、都電以外の鉄道(しゃもじ用語で他電)に移行していました。

その数日後に練馬区の某自動車教習所に通っていたけど、営団地下鉄(現、東京メトロ)有楽町線西武池袋線との直通運転が開始されたばかりの西武線営団地下鉄に熱中していました。同年7月にALIVEが発売された頃に本格的にスピヲタを始めたけど、すぐに生スピは実現しなかったです。

生のSPEEDは、翌年の1999(H11)年5月10日に運良く当選していた妹からのお誘いによりNHKホールで行われたポップジャム(PJ、MUSIC JAPAN(MJ)の前身)の収録に行った時に晴れて実現し、失われた1年1ヶ月間が解消されていました。
この収録には、モーニング娘。(当時は7人組だった)も真夏の光線で出演していたので、モーニング娘。を生で見たことも初めてとなっていました。

同年9月9日のモーニング娘。LOVEマシーンの大ヒットの時には、諸事情によりアイドルグループの1推しをSPEEDからモーニング娘。に譲ったけど、SPEEDファン(スピヲタ)を細々と続けていました。

2000(H12)3月にSPEEDが一旦解散した後もソロメンバーを応援し、2003(H15)年11月13日に横浜アリーナで行われた再結成ライブにも行っていました。

2004(H16)年10月にスピヲタを一旦休止させていたけど、2006(H18)年2月に再開、その後また休止、2008(H20)年にSPEEDが再結成された時に本格的にスピヲタをやり直そうと思い、再びスピヲタを復活させていました。

復活させた当時、例のしゃもじを刺した格好でツアー参戦をすることを考えていたけど、ツアーに参戦することもなく、2008(H20)年の11月30日をもって再びスピヲタ休止、復活することもないまま翌年2009(H21)4月4日(妹が結婚した日で、スマイレージS/mileageとして結成された日でもあった)をもってスピヲタから完全撤退し、11年5ヶ月のスピヲタ歴に終止符を打っていました。

そしてその翌日の2009(H21)年4月5日(見逃したSPEEDの交通安全パレードから丸11年経った日曜日)には、都電のお花見撮影の時に第二次都電熱狂期をスタートさせ、同年4月26日に8800形(まのさゆ、ゆう電→あや電)がデビューした時に本格的に始動していました。

この時にはスピヲタからスマヲタ(スマイレージのファン)への鞍替えともなっていたし。

SPEEDのほうは、一昨年(2011(H23)年)10月から11月に掛けて行われたファンミーティング(東京は11月3日のSHIBUYA-AXで行われていた)でSPEEDの握手会が行われていたけど、しゃもじを刺してSPEEDのメンバーと握手することが幻となっていました。

現在も継続中である第二次都電熱狂期では、一昨年3月13日をもって全廃となった7500形の乗車・撮影も行っていました。

第二次都電熱狂期が始まってから初めて発売されたモーニング娘。の曲は、「しょうがない 夢追い人」で、オリコン1位を獲得していました。

都電の電停には、お詫びの張り紙がありました。

次にさゆやあやちょと握手出来るのはいつになるんだろう?