埼京線のE233系、チアチア

この日(6月30日)は、大宮から赤羽まで、この日に営業運転が開始された埼京線E233系に乗りました。

最初は大宮駅地下ホームの19番線で、出発式が行われ、大宮10時20分発の各駅停車新宿行きから営業運転入りしていました。

この日は09運用で、日中は赤羽折り返しを含めた各駅停車で使われ、夕方からはりんかい線にも乗り入れる運用に入っていました。

埼京線E233系は、7000番台で、10両全てが4ドアの幅広車体で、1編成当たりの定員が205系の1424名から1564名と約1割増えており、東武野田線の60000系と同様にLED式照明が導入されています。

E233系の通勤型バージョンの導入は、今から3年前の2010(H22)年7月1日に京葉線に導入された5000番台以来でした。

この時に使われていたハエ101編成(クハE233-7001F)には、ヘッドマークが付いていました。

ハエ101編成は、埼京線205系以来24年ぶりの新車として、今年4月9日に新津車両製作所から配給輸送され、試運転が繰り返されていました。

先月13日までの間に7編成が配給輸送されていたけど、最終的には31編成導入される予定で、早ければ来年初頭までの間にE233系に統一される予定となっています。205系の32編成に対して1編成の減少となるし。

埼京線は、1985(S60)年9月30日に、東北・上越新幹線の高架線に併設された通勤新線(東北本線の支線・バイパス路線)として、赤羽〜武蔵浦和〜大宮間が開業し、既存の赤羽線(山手線の支線、池袋〜赤羽間を繋げた上で池袋〜大宮間が結ばれたことが始まりであり、鉄道が無く、駅から離れていた浮間舟渡、戸田、与野本町エリアが鉄道で結ばれるようになっていました。

同時に、川越線(大宮〜川越〜高麗川間)が電化され、池袋〜川越間での直通運転も開始されていたし。

埼京線の赤羽〜大宮間では、新幹線も眺めることも出来るので人気の路線でもあります。

埼京線川越線の大宮駅は、2面4線の地下ホームであり、19,20番線が埼京線上り(赤羽、新宿、新木場方面、大宮始発は19番線、川越からの列車は主に20番線が使われている)、21番線が川越線下り(川越方面)、22番線が埼京線上り(始発)、土休日は22番線から発車する川越方面の列車が1本ありとなっています。

川越線側の地下トンネルの入口は、鉄道博物館の南側付近にあり、鉄道博物館からも川越線の列車を眺めることが出来ます。

因みに川越線が非電化だった頃は、大宮駅の11,12番線(現在は11番線が湘南新宿ライン北行ホームとなっている)が使われていました。

車両基地は、赤羽線時代は山手線と共用の池袋電車区(現、池袋運転区で車両の配置は山手電車区→東京総合車両センターに移管されている)となっていたけど、埼京線の開業、川越線の電化により、南古谷駅付近にある川越電車区(現、川越車両センター)に移転されていました。

当初の計画では、大宮〜宮原間に埼京線との連絡線を新設し、高崎線を新宿まで直通運転させる予定となっていたけど、川越線との直通運転に振り替えられたことにより中止され、埼京線の宮原乗り入れが幻となっていました。やはり規格が合わないし、当時大赤字により財政難だった国鉄にとって無理な状態だったし。

高崎線の新宿乗り入れは、宇都宮線と共に湘南新宿ラインにより実現していたし。

翌年の1986(S61)年3月3日に山手貨物線部分が使われた上で新宿まで延長されていました。以来、1996(H8)年3月16日に恵比寿まで延長されるまでの間は10年間、新宿止まりの時代が続いていました。

1996(H8)年3月16日の恵比寿延長開業により、渋谷駅を通るようになって利便性が向上されていたけど、このこととは裏腹に、代々木駅付近にある2箇所の踏切で開かずの踏切に成り下がってしまったという大問題が発生していました。現在は湘南新宿ラインの導入により更に深刻化しているし。

恵比寿では、折り返し設備がない為に、大崎まで回送されていました。恵比寿への乗り入れは一部で、他は新宿折り返しのままとなっています。

2002(H14)年12月1日には、大崎まで延長され、この日をもって全線開業していたりんかい線との直通運転が開始されたことで現在に至っています。

205系が置き換えられる理由は、車両の経年化、埼京線の混雑緩和、騒音問題などだけでなく、209系ベースで製造されていたりんかい線の70-000形と格差があるということだと思われます。

E233系205系と比べて消費電力が少ないけど、LED式照明の採用により更に少なくなっています。

大宮での出発式は、19番線の先頭部分(北与野寄り)で行われていたけど、人大杉により見られなかったけど、珍宝僧氏やTJ氏と一緒に、混雑する先頭車部分を避けて、後ろから2両目の2号車に乗ることが出来て良かったです。

埼京線のラッシュ時は、大宮、川越寄りの1〜3号車で混雑が激しいと言われているけど、上りの初便らしく、逆転現象となっていました。

戸田公園駅付近で、乗り合わせていた友人(5月26日の京急のイベントで再会していた)と偶然出会うという出来事がありました。

池袋から武蔵浦和までと武蔵浦和から大宮までは、205系に乗りました。

王子で友人たちと合流した後、赤羽まで戻り、6番線(湘南新宿ラインのホーム)で赤羽始発新宿行きのE233系を撮影しました。この時に湘南新宿ラインE231系との並びを撮影することが出来て良かったです。

赤羽駅は現在全て高架化されているけど、高架化される前は、浦和駅と同様京浜東北線部分が盛り土式の駅となっていました。

埼京線赤羽駅が高架化されたのは、赤羽線時代の1983(S58)年3月2日のことで、同年10月2日に10両運転が行われていたことに関連しています。当時は、1面1線で5番線(現在の7番線)のみが使われていました。

この高架化工事は、赤羽線(当時)の真上で東北・上越新幹線の建設工事が行われていたという大掛かりな工事となっていました。

1984(S59)年2月1日には、高架化工事により単線化されていた東北貨物線上に東北線(現、宇都宮線)、高崎線のホーム(7番線)が設けられ、朝ラッシュ時の赤羽発着に使われるようになっていました。

1985(S60)年9月30日の埼京線の開業により、1面2線化され、6番線(現在の8番線)も新設。

1988(S63)年3月13日には、東北・高崎線中距離電車が池袋まで延長された時には、終日に渡って使われるようになっているけど、1面1線の為に池袋行きと池袋発の下りで共用されていました。こちらは湘南新宿ラインの前身とも言える列車でもあります。

赤羽駅の高架化は、1998(H10)年までの間に、東北貨物線(単線のまま高架化)→京浜東北線→東北(宇都宮)・高崎線の順に行われ、1998(H10)年12月8日には、東北貨物線部分が約20年ぶりに複線に戻り、5番線部分が新設されていました。

東北(宇都宮)・高崎線部分にあった開かずの踏切が解消されたのはもちろんのこと、東西への行き来がしやすくなったということで改善されていました。

浦和駅でも似たような高架化工事(今年3月16日に湘南新宿ラインのホーム新設、停車化によって完了)が行われていたけど、踏切の廃止は伴わなかったです。

赤羽駅が開業したのは、1885(M18)年3月1日のことで、日本鉄道による赤羽〜品川間の路線(品川線、後の山手線)となっていました。

1925(T14)年に山手線での環状運転が行われるようになってからは、池袋〜赤羽間が山手線の支線となり、1972(S47)年7月15日には赤羽線として独立。当時はかつての山手線と同様に黄色い101系が使われていました。

1978(S53)年に103系に置き換えられ、黄色で活躍していたけど、埼京線の開業前に山手線と同じ黄緑色に塗り替えられていました。

埼京線を走っていた103系は、赤羽線から継承された車両のほか、山手線への205系導入によって転用された車両もありました。

かつての山手線を彷彿とさせる黄緑色の川越線八高線103系が全廃となったのは、2005(H17)年のことで、奇しくも山手線から205系が撤退したのと同じ年でした。

埼京線の池袋〜赤羽間は、赤羽線(元をただせば山手線の支線)の面影の残る区間で、現在でも踏切が多いのがネックとなっています。特に十条駅は、踏切と踏切に挟まれた相対式ホームの駅であり、10両編成が限界でホーム延伸が不可能なので、埼京線への幅広タイプのE233系の導入のきっかけともなっています。

王子で解散せずに赤羽まで寄り道して良かったと思っています。

埼京線E233系の第2編成であるハエ102編成(クハE233-7002F)は、大宮駅の南西部にある留置線(地下トンネルの入口付近)に置かれていました。こちらも近いうちに営業運転入りすることが予想されます。

赤羽から池袋まで移動し、池袋駅の山手線内回りホームで、新宿から折り返してきた埼京線E233系を撮影しました。

池袋駅は、今から30年前の1983(S58)年10月1日まで2面4線の駅で、西口の東武東上線側に赤羽線の乗り場(4番線、現在の8番線)があり、山手線外回り電車と同じホームでの乗り換えが可能となっていました。

当時は、赤羽線の電車と東武東上線の電車(当時はセイジクリーム塗装の東武顔8000系(現在でもイベント専用車として使われている8111Fを含む)がメインだった)が並ぶシーンも見られていました。

1983(S58)年10月2日には、赤羽線が10両化されると共に、東側に新設された1,2番線(現在の3,4番線)に移設され、後に埼京線のホームとなっていました。山手線乗り場は3,4,5番線に変更。

これまでの赤羽線のホームは、1990(H2)年には、8番線として池袋始発の外回り電車に転用されていました。

1988(S63)年には、東北・高崎線中距離電車の池袋乗り入れにより1,2番線が新設され、埼京線乗り場は3,4番線、山手線乗り場は5,6,7番線に変更されていました。

こちらも貨物駅として使われていた広いスペースにより増設されていたし。

池袋〜大塚間は、明治通りに跨がっていた堀之内橋踏切と宮仲橋踏切があったけど、池袋乗り入れに伴う遮断時間の解消により線路が掘り下げられて廃止されていました。この時には後述の切り替え工事の時を含めて、一時的に単線化されていました。

池袋駅の線路切り替え工事は、2002(H14)年5月19日、2003(H15)年5月25日、2004(H16)年6月5日から6日に掛けて行われ、埼京線が1,4番線、湘南新宿ライン成田エクスプレス等の特急列車が2,3番線と、方向別に変更されていました。

4番線は、1983(S58)年以来30年間、赤羽線埼京線一筋で使われていることになっています。

この工事では、1番線に通じる埼京線の上り列車で山手貨物線(湘南新宿ライン)を乗り越える形となり、平面交差が解消されていました。これにより、現在のような湘南新宿ラインの終日運行が可能となっていたし。

埼京線は、大崎〜大宮間の路線の総称であり、正式名称は、大崎〜池袋間が山手線(山手貨物線)、池袋〜赤羽間が赤羽線、赤羽〜大宮間が東北本線(支線)であります。

埼京線の新宿、新木場寄りの10号車は、2001(H13)年に、京王線に続く首都圏で二番目に(JR東日本で初めて)導入された女性専用車両となっており、当時は平日の恵比寿、新宿23時台以降発の下り列車のみ設定で、ステッカーが京王線と同様の白系となっていました。

2005(H17)年4月4日からは平日の朝ラッシュ時の上り列車及びりんかい線にも拡大され、ステッカーがピンク色の標準デザインに変わっています。

反対側の先頭車(1号車)には、防犯カメラが設けられ、E233系にも踏襲されています。

埼京線の大崎〜池袋間の途中停車駅は、恵比寿、渋谷、新宿で、渋谷駅の場合は、恵比寿寄りにずれている為にハチ公口などの中心街や他の路線への乗り換えに時間が掛かっているのが現状となっているけど、渋谷駅の再開発及び、3月15日に東横線の地上ホームが廃止されたことにより、山手線側に移設されることになっています。

恵比寿駅の南側にある恵比寿ガーデンプレイスは、1994(H6)年10月に開設されたスポットで、それ以前は有名なプレミアムビールであるヱビスビールでお馴染みの工場だったサッポロビールの恵比寿工場があり、貨物輸送も行われていたこともありました。

現在恵比寿駅の発車メロディーヱビスビールのCM曲である第三の男が使われているのはその縁であります。

この後、浜松町のサテライトプラスに行き、Tokyo Cheer2 Party(チアチア)のイベント「トーキョーチアチアパーティーです、ハイ!メジャーデビューシングル ガムシャラスピリッツ 未来の扉をあけるぞ 初夏ツアー」に行きました。この時に、澤翔子中西悠綺須永留奈、澤田樹奈各氏とのチェキ会に加え、しょこりんこと澤翔子氏とのチェキサイン会に参加しました。この時の会話では、最初に出会ったときにすぐに顔を覚えたと言っていたことを覚えています。

大崎駅で、E233系による大崎始発のりんかい線運用(新木場行き)を撮影しました。

E233系りんかい線乗り入れ第一号は、大宮17時16分発の各駅停車新木場行きで、新木場到着後、折り返し大崎行き(りんかい線内の運用)となっていました。

新木場〜大崎間を間合い運用で1往復した後、E233系初の快速運用並びに川越線での旅客営業となった新木場19時33分発の快速川越行きに使われていました。

折り返しは快速新宿行きとなり、再び新宿から赤羽まで行き、赤羽から折り返し大崎行きの運用に入り、大崎で停泊した後、翌日(7月1日)の57運用(初の通勤快速の運用あり)に使われていました。

埼京線からの大崎行きは、ダイヤ乱れ等によるりんかい線との直通運転中止の時を除いてこの列車だけとなっています。

この時に東京臨海高速鉄道(りんかい線)の70-000形(70-100F)との並びも撮影することが出来ました。

この日の都電は、王子駅前で見ただけで、8803号車(あや電、きなりん、ピンクしょこりん)が検査出場されて営業運転入りしていたのを確認しました。

この日は、汐留でモーニング娘。の個別握手会があったけど、参戦出来なかったです。

次に、さゆ、あやちょ、りなりな、佐保ちゃん、しょこりんと握手出来るのはいつになるんだろう?