電車とバスの博物館、こどもの国線

この日は、2年ぶりに東急の宮崎台にある電車とバスの博物館に行ってきました。

まずは渋谷、二子玉川乗換えで宮崎台まで行き、電車とバスの博物館に入りました。

この時には、玉電の204号車や510号車などを撮影していました。

東急のデハ200形は、1955(S30)年に低床、連接構造の高性能車として201〜206号車の6編成が導入され、玉川線(渋谷〜二子玉川園(現、二子玉川)間)、同支線(現、世田谷線三軒茶屋〜下高井戸間)で活躍していました。

特殊な車体などが仇となり、保守、運用面で手間が掛かるなどの問題があった為に1969(S44)年5月に玉川線の渋谷〜二子玉川園間の廃止と共に、世田谷線に継承されずに14年という短命で全車廃車となったのである。

この204号車は廃車後に多摩川園(多摩川駅付近にあった遊園地)→高津駅高架下→旧電車とバスの博物館(高津時代)を経て、現在の電車とバスの博物館(宮崎台)で保存されるようになったのである。

206号車のほうは、玉電廃止後に千葉県野田市清水公園で保存されていたけど、荒廃により解体されていました。

204号車は、玉電の高性能車(LRTの先駆けとなった車両)として大切に保存されていることは良いことだと思います。

丸みのある前面スタイルで、ペコちゃん、イモムシと呼ばれていました。

電車とバスの博物館は、2002(H14)年9月まで高津駅の高架下にあり、大人・子供共に10円で入れる博物館として話題となっていました。

やはり二子玉川溝の口間の複々線化工事(現在は完成済)の支障となる為に2003(H15)年3月に宮崎台駅付近に移転され、展示スペースが高津時代よりも広くなっていました。同時に入館料が大人100円(小中学生50円)に値上げされていたけど、ワンコインで入れることが受け継がれています。

道路を渡ったところにある別館であるイベント館では、緑色の旧型車両であるモハ510形(後藤番)が展示されていました。こちらは晩年デハ3450号車として活躍していた車両で、1989(H元)年の引退後に復元され、高津駅の高架下で静態保存されていました。その車内は、とても懐かしい雰囲気がありました。

このイベント館には、日本エアシステムJAS、現在はJAL日本航空に吸収合併されている)で活躍していたYS-11型(JA8662号機、なると)のカットボディによる航空シュミレーターもあります。 日本エアシステムJAS)のほうは、日本国内航空東亜国内航空TDA)の時代から2002(H14)年9月まで東急グループの航空会社として有名となっていました。電車とバスの博物館にこのシュミレーターがあるのは、かつて東急の子会社であったということに由来しています。高津時代は3号館にあったし。

日本エアシステムJAS)から継承された飛行機は、エアバスA300型,A300-600R型,MD-81,MD-87,MD-90型もあったけど、現在はB777型だけとなっているので、B777を除いてJASの面影が無くなってしまいます。

バスのほうは、懐かしの日野RB10形、東急コーチ第一号車である三菱ふそうB623B(B6系)が保存されているけど、後者のほうはシュミレーターとして活用されています。

懐かしの日野RB10形の展示方法は、京王れーるランドにあるチョロQバスに似ています。

この後は長津田乗り継ぎで横浜高速鉄道こどもの国線のY000系のY002Fで移動しました。

こどもの国線は、1967(S42)年4月28日に開業した路線で、弾薬庫への引き込み線が転用されていました。

こどもの国は、1965(S40)年5月5日に、旧日本軍田奈弾薬庫跡地に整備されて開園した、その名の通りの子供達の遊び場(児童厚生施設)であり、横浜市青葉区と東京都町田市に跨っています。

開業当初は、こどもの国協会による保有による、こどもの国へのアクセス専用路線で、休演日には、大幅に減便されていました。

運用は、現在もみなとみらい線と同様に東急電鉄に委託されているし。

1997(H9)年8月1日には、こどもの国協会から横浜高速鉄道に譲渡され、通勤線化工事が行われ、2000(H12)年3月29日には、通勤路線として大幅に増発され、途中に恩田駅が新設されていました。

横浜高速鉄道のY000系は、1999(H11)年8月1日に、通勤線化に備えて導入された2両編成のワンマン電車(こどもの国線専用)で、東急目黒線に導入されていた新3000系がベースの3ドア車となっています。当時はY001Fしかなかったけど、同年12月には、Y002FとY003Fも加わって3編成となっていました。

普段は2両編成だけど、多客期には重連の4両編成で運転されることもあります。 9月29日に長津田車両工場(恩田駅付近)で公募制による一般公開が行われた時には、一部4両編成で運転されていました。

こどもの国線の専用車は、開業当時は旧3000系が使われていたけど、1980(S55)年から1989(H元)年1月までは、7200系アルミ試作車(晩年は電気検測車および牽引車両で活躍していた)が、1989(H元)年1月のワンマン化から2000(H12)年3月まで、旧7000系ワンマン改造車(7052F)が使われていました。

これらの専用車両が使えなかった時や多客期には、大井町線用の5両編成(当時は8000系列が使われていた)による代走が見られていたけど、夏場は冷房車として重宝されていました。

7000系ワンマン改造車(7052F、世田谷線を除いた東急線での最後の非冷房車)は、引退後に東急車輛製造(現、総合車両製作所横浜事業所)に譲渡され、入れ替え用として活躍していたけど、そのうちの7052号車は、5200系の5201号車(初のステンレス車両)と共に東急車輌産業遺産として静態保存されています。

長津田駅では、専用の7番線から発車しているけど、通勤路線化される前は、専用の地下通路による連絡となっていました。 通勤路線化されてからは、無人化されていたので、一旦改札を出てからの乗り換えとなっています。 こちらは東武大師線大師前駅と同じような扱いとなっています。

恩田駅は、中間にある1面2線の交換駅で、平日の朝夕には、列車の交換が行われています。平日の朝夕以外は、1編成限定運用なので、JR南武支線(浜川崎支線)や、地下鉄千代田線の北綾瀬支線に似ています。

こどもの国駅は、開業当時から1面1線の駅で、通勤線化により改良されていました。

ここからは小田急線の鶴川駅まで、小田急バスが出ています。

こどもの国線に乗ったのは、一昨年の6月8日以来で、当時はekiShしかやっていなかったので、その後に始めた駅コレを制覇することが出来ました。

この後は、桜新町で途中下車し、サザエさん通りを歩きました。 サザエさん通りは、長谷川町子美術館へと向かうところにある桜新町商店街であり、桜新町駅前には、サザエさん一家の銅像があります。

ちょうどサザエさんがやっている時に歩いたことになりました。

この後は駒沢大学駅まで歩いて行き、三軒茶屋まで田園都市線で移動し、三軒茶屋から下高井戸まで、東急世田谷線の306F(黄色い世田谷線、ももち番、世田谷きなりん(せたきな))で移動しました。

この日は301Fを撮影したかったけど、上町の車庫で寝ていました。310F(モーニング娘。のまーちゃんこと佐藤優樹氏にあやかったまーちゃん番、佐藤の語呂合わせ、メンバーカラーも同じ)も運休だったし。

下高井戸からは折り返し上町行きとなっていました。その後、京王線で帰りました。

世田谷線の306Fは、2000(H12)年製と、ステーション♪のきなりんこと石川きなり氏と同じ年の車両でもあります。

世田谷線のほうは、1999(H11)年7月11日に300系が導入される前は、冷房化率ゼロの路線となっていました。

この日は、富山県の富山MAIROでモーニング娘。のナルチカ公演が行われていたけど、岐阜の友人はFC落選でチケットが取れなかったので参戦出来なかったです。岐阜県と北陸は近いのに参戦出来なかったのが惜しまれます。 自分も参戦出来ずにしゃもじ欠席○○電運休で、都電の8810号車(ハニー色のあや電、きなりん)が荒川車庫で寝ていることに例えたくなります。あとは、前述の東急世田谷線の306F(黄色い世田谷線、ももち番、世田谷きなりん(せたきな))が上町車庫で寝ていることにも例えたくなるし。

早くさゆやTokyo Cheer2 Party(チアチア)の4期生と握手したいです。これだと初握手が大幅に遅れていたモーニング娘。の10期メンバーの時の二の舞となってしまうことが懸念されます。

次にさゆ、あやちょ、はるなん、りなりな、佐保ちゃん、まみたん、しょこりんと握手出来るのはいつになるんだろう?